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#小さい平和の少女像injapan
★写真名 博士王仁(わに)碑(台東区上野公園1番) (第33番/写真連作)
Monuments to Wani the Scholar (No.1 Ueno Park, Taito city) (The thirty-third photograph of the series)
★写真名 小松乙女(エドヒガン雑種)原木 台東区上野公園 (第34番/写真連作)
Scientific Name Cerasus spachiana ‘Komatsu-otome’ Ueno Park, Taito city (The thirty-fourth photograph of the series)
★写真名 染井吉野並木 台東区上野公園 (第35番/写真連作)
Row of trees Scientific Name Cerasus × yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’ Ueno Park, Taito city (The thirty-fifth photograph of the series)
★写真名 染井吉野 台東区上野公園 (第36番/写真連作)
Scientific Name Cerasus × yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’ Ueno Park, Taito city (The thirty-sixth photograph of the series)
★写真名 陽光 不忍池 台東区上野公園 (第37番/写真連作)
Scientific Name Prunus campanulata 'Yoko' Sinobazunoike Ueno Park, Taito city (The thirty-seventh photograph of the series)
★写真名 染井吉野不忍池 台東区上野公園 (第38番/写真連作)
Scientific Name Cerasus × yedoensis (Matsum.) Masam. & Suzuki ‘Somei-yoshino’ Sinobazunoike Ueno Park, Taito city (The thirty-eighth photograph of the series)
★写真名 近所の安行桜(アンギョウサクラ) (第39番/写真連作)
Scientific Name Cerasus x kanzakura 'Oh-kanzakura' Ohwi of the neighborhood (The thirty-nineth photograph of the series)
▼2019年11月に河 正雄(하정웅/ハ・ジョンウン/ Ha Jung Woong)氏の講演を聞く機会がありました。講演のなかで、「上野公園には『わに・はかせ』(王仁博士)の偉業を追慕する碑が建っています」「王仁は戦前には教科書にも載り、学んだ人間であるが戦後に消えてしまいました」「最近、著名な人士でさえ上野公園に王仁博士の碑がある事を知っているかと尋ねても殆どの人々が碑の所在地や人物について知らぬと答えられ失望と困惑をしていました」との話を聞きました。
▼上野公園周辺には、東京学芸大付属美術館、東京国立博物館、東京都美術館、国立西洋美術館などミュージアムも多く、私は頻回に訪問していますが、毎回毎回、展覧会を見ることに気を取られて、「王仁博士の碑」を訪れそびれていました。
▼桜とともに撮影するには、職場からでも千鳥ヶ淵(私の感覚では国立近代美術館のもう少し先)まで徒歩1時間程度、上野公園には徒歩30分程度で、いずれも徒歩で移動を想定していますが、この機会に「王仁博士の碑」を訪れるべく、上野公園に向かいました。人出は少ないものの、諸所の桜の前では人々が思い思いにスマホによる撮影に興じていました。また、私が撮影する間にも数組が入れ替わり、立ち替わり、「王仁博士の碑」を訪れて碑を眺め、案内板の説明をのぞき込んでいました。
▼▼ホームページ「河 正雄アーカイブ」https://www.ha-jw.com/memorial/wani/に「温故知新・王仁博士青銅刻画碑建立に寄せて/社団法人韓日文化親善協会刻画碑建立諮問委員長 河正雄」として掲載されています。「王仁博士の偉業」「上野公園の碑」項目を次に紹介します。
▼「王仁博士の偉業/日本における文化形成の原点、漢字を伝え飛鳥文化を花咲かせた百済の賢人と崇められる漢文学・儒学の始祖博士王仁。/西紀285年(日本書記応神16年『16年春二月王仁来之太子師之習諸典籍於王仁莫不通達…是年百済王…』なる記述)に応神天皇の招請をうけて百済14代近仇首王(375年~384年)代の文化使節として渡来河内に定住。文筆をもって朝廷に仕え日本皇室の師博君臣の政治顧問として活躍した。庶民に至るまで文字、文章、倫理、道徳を広く教えた。/また技術工芸の伝授、鍛治、醸造、造船、織物、陶器などの技術を教えた。これより古代日本人が文化生活を営む大陸文化の摂取に貢献、日本文化史上に新紀元を建て日本で生涯を終えた。日本の朝廷では博士の功徳に報いるべく『西(かわちの・河内)の文首(ふみのおびと)』の始祖という尊称を授けた。/博士王仁の出生地は韓・日両国の学者の研究や地元の伝説(1939年刊の寅輿勝覧霊岩聖基洞條『百済古爾王時博士王仁生於此』の記述)などから全羅南道霊岩郡鳩林里聖基洞と確認されている。/渡日の年代については、古事記によれば百済古爾王52年(285年)とあるが、日本書記には百済阿華王14年(405年)の記述がある事からこの年代であろう。/古事記(712年)中巻、応神天皇條『百済国』項に和邇吉師(わにきし)によって漢字が日本に伝えられたと書かれている。和邇吉師は日本書記(720年)応神天皇巻では王仁博士と改まって書かれている。/古事記では漢籍『論語』十巻、『千字文』一巻を携えて来た事が記してあるが、日本書記ではその事には触れず天皇の皇太子(菟道稚郎子・うちのわさいらつこ)の家庭教師となったと記されている。」
▼「上野公園の碑/上野公園には王仁博士の偉業を追慕する碑が建っている。正碑は大理石で作られており、その隣に副碑がある。/この正碑は昌徳宮からの下賜金、近衛文磨首相を始めとする皇室一族と日本各界を総網羅した330余人の名士等の協賛により建立されている。(略)」
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