キャンペーン参加へのお問い合わせ:31demo1919@gmail.com
#小さい平和の少女像injapan
▼(ペンネーム/“2020”_against_racism)
連作名/日本国憲法に従って、ヘイト・スピーチを処罰することが必要です。
The series of photographs “If I would obey the Constitution of Japan, it is
necessary to punish a hate speech.”
★写真名 行幸橋からの眺め(第19番/写真連作)
A view from Miyuki bridge (The nineteenth photograph of the series)
★写真名 SAKURA MACHI Kumamoto(第20番/写真連作)
SAKURA MACHI Kumamoto (The twentieth photograph of the series)
★写真名 阿蘇くまもと空港 (第21番/写真連作)
Aso Kumamoto Airport (The twenty-first photograph of the series)
★写真名 阿蘇くまもと空港3階展望デッキ(第22番/写真連作)
Aso Kumamoto Airport Third floor Observation Deck (The twenty-second
photograph of the series
★写真名 平御櫓 (第23番/写真連作)
Hira on Yagura Turret (The twenty-third photograph of the series)
★写真名 上通りアーケード街(第24番/写真連作)
Kamitori arcade (The twenty-fourth photograph of the series)
★写真名 熊本県立伝統工芸館/(第25番/写真連作)
Kumamoto Prefectural Traditional Crafts Center (The twenty-fifth photograph
of the series)
★写真名 熊本県立伝統工芸館前からの眺め(第26番/写真連作)
A view in front of Kumamoto Prefectural Traditional Crafts Center (The
twenty-sixth photograph of the series)
★写真名 熊本市立熊本博物館(第27番/写真連作)
Kumamoto city museum (The twenty-seventh photograph of the series)
★写真名 熊本市立現代美術館 (第28番/写真連作)
Contemporary Art Museum Kumamoto (The twenty-eighth photograph of the series
★写真名 北海道立近代美術館 (第29番/写真連作)
Hokkaido Museum of Modern Art (The twenty-nineth photograph of the series)
★写真名 北海道立三岸好太郎美術館 (第30番/写真連作)
Migishi Kotaro Museum of Art (The thirtieth photograph of the series)
★写真名 大通美術館 (第31番/写真連作)
Odori Museum (The thirty-first photograph of the series)
★写真名 札幌市役所 (第32番/写真連作)
Sapporo city hall (The thirty-third photograph of the series)
(ペンネーム/“2020”_against_racism)
▼2020年1月初旬~1月中旬にかけて次の書籍を読みました。以下に抜粋して紹介しま
す。
◆「カラー版/日本画の歴史/近代篇/草薙奈津子」(2018年11月25日発行/中央公論
新社)「( )」で示された参照書籍などは引用時に一律に省略しました。
▼▼「序」では、「一体『近代』というのはいつごろから始まるのでしょうか?一般に明
治維新前後から第2次世界大戦までといわれています。つまり西洋化が始まった江戸
末期の開国からといえるのです。そして、第二次世界大戦から今日に至るまでを『現
代』と呼んでいます。/日本の近代化=西洋化は政治・経済・軍隊・文化などあらゆる分
野に及びました。そして、日本という言葉も意図的に使われるようになったのです。
明治に入ると会社では日本鉄道会社、日本銀行、日本郵船会社など、新聞雑誌では
『日本』『日本人』『日本評論』など、美術団体でも『日本美術協会』『日本絵画協
会』など次々と生まれてきたのです。みな明治一〇年から二〇年にかけてでした。そ
れまでは狩野派、土佐派(大和絵)、円山四条派、浮世絵など流派で呼ばれていた絵画
(日本画)が、明治二〇年ごろ『日本画』と称されるようになったのです。そして、
『日本画』が成立することによって、初めて『西洋画』も成立したのでした。もっと
も一八八二年のアーネスト・F・フェノロサの講演の小冊子『美術真説』の中で
Japanese painting(picture)の邦訳語として『日本画』という語(言葉)が初めて現れ
たと言います。/このことからもわかるように、日本画の近代化とは西洋化、大雑把
にいうと写実化だったのです。/明治維新は幕府の御用絵師であり、各藩のお抱え絵
師であった狩野派を壊滅させました。禄を離れた狩野派画家たちは窮乏の限りを尽く
したのです。(略)一方、宮廷に使えた大和絵の土佐派はすでに江戸時代から衰退して
いました(略)/円山応挙に始まる写実画の円山派、あるいは与謝蕪村の弟子で南画家
であり俳人であった松村月渓(呉春)を祖とする円山派に南画と俳人趣味を加味した四
条派は、京都という狭い地域の画風であり、(略)まだまだその影響が大きく東京に及
ぶことはありませんでした。/これを見てもわかるように江戸末、絵画はほとんど壊
滅状態であったのです。(略)/(略)多難の一歩を踏み出した日本画ですが、一八七八
年に来日した政府のお雇外国人フェノロサを迎えることによって、日本画革新運動が
始まりました。一八八二年のことです。フェノロサの指導のもと写実的表現、三次元
的表現に取り組んだのです。以後、その思想は岡倉天心に受け継がれますが、明治政
府の国策である富国強兵の時代、絵画も当然その影響を受けます。日本画革新運動と
称する国家主義的な堂々たる作品が生まれてきました。偉人などを顕彰する歴史画が
流行ったのもそういう時代だったからです。作家は横山大観、下村観山、菱田春草
ら、発表の場は一八八九年に創設された日本美術院。かれらの作品を見ると、よくぞ
こんな短時日でここまで完成度の高い、大作を生み出したものだと思いますが、これ
は富国強兵に突っ走る時代の空気ともおおいにかかわっていたといえます。その日本
美術院も一度廃れますが、岡倉天心の没した翌年、大観、観山らを中心に一九一四年
に再興され、今村紫紅、小林古径、安田靫彦、前田青邨、速水御舟ら次世代の活躍も
あり、今日に至るまで日本画の有力団体として存続しています。/(略)大和絵のなか
でも桃山時代の金碧障屏画、江戸期の宗達・光琳・酒井抱一らに代表されるいわゆる琳
派(宗達光琳派)は日本美術院の画家たちを中心に研究され、取り入れられました。明
治末から大正時代にかけて、金地を主とする絢爛豪華で大らかな大和絵の影響を受け
た作風がもてはやされたのです。この大らかさは大正という時代の影響ともいえるで
しょう。二曲一双屏風が流行ったのも、宗達の影響といえます。/一九〇七年に文展
〔引用者注/第一回文部省美術展覧会〕が開催されましたが、これが官制展覧会(官
展)の始まりです。(略)以後、官展は脈々と続き、一九一九年からは帝展(帝国美術院
主催)、三五年に文部大臣松田源治による改組を経て、三七年からは新文展(文部省主
催)となり四四年の文部省戦時特別美術展まで続きました。戦後は日本美術展覧会(日
展)となり、五八年には社団法人日展が主催する形となり、法人化してもやはり官展
の体裁を維持しますが、六九年以改組新第一回日展が開催され、今日に至っていま
す。/(略)しかし、今村紫紅が一九一六年に亡くなると、そういった大らかな作風は
急速にしぼんでいきました。第一次大戦後の経済的逼迫、関東大震災、さらに世界恐
慌が続き、日中戦争から第二次世界大戦へと続く暗黒時代のとば口に入ってきたとい
えるのかもしれません。(略)/(略)古典主義絵画に範をとるのが新古典主義絵画なの
です。/しかし近代日本画の場合、それこそ七世紀末~八世紀初(白鳳時代)とされる
法隆寺金堂壁画から一八世紀~一九世紀の酒井抱一らの江戸琳派に至る作品群で、良
しとするものすべて取り入れて自家薬籠中のものとしたのです。新古典主義を代表す
る古径の作品を見ると、テーマを古典絵画や古典文学にとり、完璧な技術、安定した
構築性、調和のとれた静謐な世界には、新古典主義と称してもよい要素が十分含まれ
ています。新古典主義を代表する画家は他に安田靫彦、前田青邨などがおり、した
がって彼らの属する日本美術院が新古典主義を代表するといわれるようになりまし
た。/この作風は大正末から昭和戦前に大いにもてはやされました。つまり日本が軍
国化し、ついに戦争に向かう時代と軌を一にしているのです。(略)明治時代には先鋭
であった横山大観が、昭和に入ると富士山や、それに旭日、桜などを添えた作品を盛
んに制作するようになり、どんどん国粋主義的になっていったのも時代に影響された
結果といえます。(略)」としています。
▼「第五章 岡倉天心と日本美術院の作家たち」「近代日本画における色彩の変化」では
「(略)日本画の絵具の代表的なものは岩絵具です。/これは鉱物を細かく砕いて粉状
とし、それを接着剤である膠で溶いて使うのです。粉の細かさによって濃い色から薄
い色へ、つまり群青から白群となっていきます。そうやって幾種類かの色彩が生まれ
るのですが、混色できない。それは絵具の粒子の大きさが違うために比重が異なるた
め、うまく混ざらないからです。ですから、ちょっと古い日本画を見ると随分単純な
色使いと思われるのではないでしょうか。それは仕方ないことなのです。一方で日本
画が装飾的とされるのはこういう絵具の制約のためかもしれません。/この絵具の不
自由さをなんとか解決しよう、日本画の色彩をもっとゆたかにしようとしてフェノロ
サはフランスから絵具を取り寄せ、それを日本画に使いました。/一九世紀後半ヨー
ロッパでは化学合成による人口顔料が次々と開発ざれ、画家のパレットを彩ったとい
います。特にクロム系顔料(黄色系)やコバルト系顔料(青系)の開発は画期的だったと
いいます。赤青黄の三原色が均質に存在し、自在な混色によって無限の中間色を生み
出せる顔料が当時のヨーロッパで完成されつつあったということです。(略)/私たち
はなんとなくヨーロッパの絵具というとチューブに入っていると思いがちですが、粉
状のものです。(略)/東京藝術大学の先生であった吉岡堅二は、絵具はもともと西洋
も東洋も同じ西に行って油で溶くか、東に行って膠で溶くかの違いだといっていまし
たが、本当にそうだと思います。」としています。
▼2020年1月中旬~1月下旬にかけて次の書籍を読みました。以下に抜粋して紹介しま
す。
◆「カラー版/日本画の歴史/現代篇/草薙奈津子」(2018年11月25日発行/中央公論
新社)「( )」で示された参照書籍などは引用時に一律に省略しました。
▼▼「序」では、「(略)/戦争が忍び寄ってきた昭和一〇年代、日本画・洋画の世界で前
衛美術グループが離合集散する現象が現れたのは、消え入るロウソクの灯のようなも
のだったのかもしれません。彼らの真摯な活動は戦争によって押しつぶされ、活動不
能になってしまったのでした。画壇の新しい革新運動というのは戦後を待たなければ
なりませんでした。/戦争に協力する画家たちが誕生したのも事実でした。多くの画
家が、一九二四年に始まる日本画報国会や一九四三年創立の横山大観が会長を務めた
日本美術報国会に属したのも、ここに属さないと紙・絹・絵具など絵画制作に必要な画
材を受けられないという現実的な悩みがあったのです。/一九四五年、敗戦で終わっ
た第二次世界大戦は日本画たちに何ももたらさなかったといっていいかもしれませ
ん。日本的なものがすべて否定されるなかで、日本画もその標的になりました。一九
四六年、桑原武夫が『第二芸術-現代俳句について』を発表し、俳句はもはや過去の
遺物とこき下ろすと、それが日本画にも当てはめられ『日本画第二芸術論』『日本画
滅亡論』などがまかり通ったのです。(略)一九四九年に横山大観が日本芸術院会員の
辞表を提出したのも、戦争責任を問われるのではないかと恐れたためといわれていま
す。しかし、大観の恐れは杞憂に終わりました。日本画家たちの中で戦争責任をとる
者はいませんでした。/あんなに衰退した日本画は再び芽を吹きだしたのです。その
契機は一九五一年、東京国立博物館で『アンリ・マチス展』と同時に開催された『宗
達・琳派特別展』でした。人々は西洋美術に決して劣らない日本美術に自信を回復し
たのです。(略)/ところで以上お話しした人たちの活動はグループ活動でした。一つ
の主義主張があったのです。これは明治時代からの流れでした。ところが非常に個人
性の強いグループが誕生してきたのです。(略)/(略)彼らは自分たちの日本画を生み
出そうと悪戦苦闘しますが、西洋絵画の束縛から完全に逃れることはできませんでし
た。何しろ日本の西洋化とは、明治時代に始まる近代という長い歴史に裏打ちされて
いたのです。しかしその束縛を受けながら、次第にそこから解放され、かつ土俗的な
方向へ向かった画家がいました。アメリカ留学から帰国後の岡村桂三郎です。さらに
その束縛から逃れたばかりでなく、全く気にしない世代が誕生してきたのです。近代
化という西洋化からの解放、それが三瀬夏之介の絵画です。これは近代以降の連綿と
続いてきた“日本画”から“日本の絵画”が誕生した、といってよいでしょう。/ま
た、忘れてならないのが、女性画家たちです。戦後いくら男女平等といっても、なか
なか女性画家は受け入れてもらえませんでした。実力以前、女性であるということで
拒絶されたのです。すでに戦前に認められた小倉遊亀はさておき、片岡球子が認めら
れたのは晩年のことです。戦後すぐに台頭した堀文子が認められたのは、戦後のほん
の一時期、男女平等が意識された時代のことであって、彼女が本格的に認められたの
は、やはりずっと後のことでした。戦後しばらくして台頭した秋野不矩や荘司福は、
実力はあっても世間で評判は得られなかったのです。やっと女性画家がみとめられる
ようになったのはごく最近です。しかし今や美術大学の入学者数は女性が多くなり、
また結婚しても、子供ができても。画家をやめなる女性はほとんどいなくなりまし
た。そして、世間一般から公正な目で女性の実力が認められるようになってきたので
す。/(略)」としています。
▼「第一章 昭和前期の日本画」「日本画家の戦争画」では、「一体に日本画家は洋画家に
比べ写実的な表現力に劣りました。したがって洋画家ほどには戦争画を制作していま
せん。しかし全くなかったわけではありません。(略)/(略)この時の従軍座談会を読
むと、戦争に参加するというよりも。取材旅行のような気分です。砂漠の美しさに心
奪われたり、風景としての支那人に興味を示したりしているのです。/(略)かつて吉
岡堅二から戦争中の話を直接聞きました。その話しぶりが生き生きとして、とても楽
しそうでした。何の後ろめたさもないようすで、『あんなアヴァンギャルドな作品を
制作された方は反体制派なんじゃなかろうか、それなのに戦争に加担するなんて…』
と、いささか疑問に思ったものでした。でも今思うと、戦時中の日本人はほとんどマ
インドコントロールされていたようですし、若い時の強烈な体験はいつまでたっても
忘れないものですから、当然なのかと自分を納得させたことが思い出されます。(略)
/陸海軍依頼の公式戦争画である『作戦記録画』は(略)戦争記録画展などで発表され
ましたが、いずれも朝日新聞社主催であり、戦争画は朝日新聞社の独壇場でした。巡
回展を含めると第一回大東亜戦争美術展入場者数は三八〇万人と言われます。」と
し、「大観と戦争画」では、「(略)公式戦争画である『作戦記録画』のうち日本画は二
割程度とのことです。したがって戦争に加担しなかったかというと、そうは言い切れ
ません。銃後の守りをさらに強固なものとする役割を果たしました。その代表が横山
大観(一八六八~一九五八)だったのです。大観は明治のころはアヴァンギャルドな画
家でした。しかし、昭和に入ると、その若き日の面影はどんどん薄れていったので
す。むしろ右傾化し軍国主義化する国家に追随するような言動が顕著になってきまし
た。(略)大観が彩管報告の念抑えがたく制作した海・山二〇点は、それぞれ日本橋三
越百貨店と高島百貨店で発表されました。一点二万五千円で展覧会前に全作品売薬済
になってといいます。そしてその潤筆料五〇万円は献納され、陸海軍の戦闘機四機に
なったのです。この一事をしても大観の心が軍国主義的な方向にむかっていたことが
わかります。/(略)戦争に協力しないと絵画制作に必要な絵具や紙・絹などの配給を
受けられなくなるという切実な問題がありましたから、画家たちはどうしても協力せ
ざるをえなかったということもありました。もし自分がその立場に立たされたらどう
だったろうかと想像すると、はなはだ心もとなくなります。つまり戦争とは、気づい
た時には個人ではどうすることもできなくなる恐ろしいものなのです。そしてそれを
後で後悔しても、もう遅すぎるのです。近代日本画の歴史はそんなことを教えてくれ
ます。」としています。
0コメント