小さい「平和の少女像」と-185

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#小さい平和の少女像injapan

(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

先日、北海道札幌市に業務で出張しました。午後からの業務開始時間の前と早朝にあらかじめ調べた徒歩による観光ルートをもとに撮影して歩きました。また、翌日は北海道大学のすぐそばの会場であり、「市民もよく散策している」との話を聞き、業務の用件を終えた後、午後の時間に大学構内の案内板をみながら撮影スポットを探して歩きました。なお、別日に仙台に住む知人を訪ねた際に撮影した写真もあります。

写真名 ウィリアム・クラーク像_北海道大学(第45番/写真連作)

Statue of William Clark _Hokkaido University (The forty-fifth photograph of the series)

写真名 札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)(第46番/写真連作)

The clock tower in Sapporo City (a former theatrical hall of the Sapporo Agricultural School) (The forty-sixth photograph of the series)

写真名 さっぽろテレビ塔_札幌市のランドマーク(第47番/写真連作)

Sapporo television tower _Landmark of Sapporo City (The forty-seventh photograph of the series)

写真名 北海道旧本庁舎「赤れんが」(第48番/写真連作)

The former Hokkaido Government Office Building “Aka-Renga=Red brick”

(The forty-eighth photograph of the series)

写真名 ポプラ並木_北海道大学(第49番/写真連作)

An avenue of poplars _Hokkaido University (The forty-ninth photograph of the series)

写真名 けやき並木_北海道大学(第50番/写真連作)

Avenue of the zelkova tree _Hokkaido University (The fiftieth photograph of the series)

写真名 _木漏れ日の切り株_北海道大学(第51番/写真連作)

Stump of the sunshine filtering through foliage _Hokkaido University (The fifty-first photograph of the series)

写真名 農学部本館_北海道大学(第52番/写真連作)

Main Building of Faculty of Agriculture _Hokkaido University

(The fifty-second photograph of the series)

写真名 総合博物館_北海道大学(第53番/写真連作)

Museum _Hokkaido University (The fifty-third photograph of the series)

写真名 古河講堂_北海道大学(第54番/写真連作)

Furukawa Hall _Hokkaido University (The fifty-fourth photograph of the series)

写真名 JR札幌駅南口(第55番/写真連作)

JR Sapporo Station south entrance (The fifty-fifth photograph of the series)

写真名 JR仙台駅西口(第56番/写真連作)

JR Sendai Station west entrance (The fifty-sixth photograph of the series)

写真名 駅前通り方向の眺め(仙台駅西口) (第57番/写真連作)

View of the station road direction (JR Sendai Station west entrance)

(The fifty-seventh photograph of the series)

写真名 待ち合わせ場所として有名なステンドグラス(仙台駅西口) (第58番/写真連作)

Stained Glass which is famous as a meeting place (JR Sendai Station west entrance)

(The fifty-eighth photograph of the series)

◆◆バックナンバー/Back numbers

絵画の連作といえば、印象派を代表するフランスの画家クロード・モネ。「積みわら」「ポプラ並木」「睡蓮」などの連作があります。なかでもルーアン大聖堂についてはまったく同じ構図で、1日の様々な時間帯の色合いの大聖堂を描いています。私は残念ながらルーアン大聖堂の連作は画集やビデオで見ただけで、まだ一枚も直接見たことはありません。

◆写真連作「私は、多くの人々がいつでも彼女に会うことができるもっと多くの場所を必要とします」

掲載日2019年8月31日/第1番~第5番

掲載日2019年9月3日/第6番~第10番

掲載日2019年9月30日/第11番~第20番

掲載日2019年10月7日/第21番~第34番

掲載日2019年10月18日/第35番~第44番

◆写真連作「私は差別を許さないマスメディアを必要とします。」

掲載日2019年9月10日/第1番~第10番

◆写真連作「彼女と、私は公的または私的な美術館と展示を訪問しました。」

掲載日2019年9月30日/第1番~第9番

掲載日2019年10月11日/第10番~第14番

(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

▼▼「韓国における性売買の政治化と反性売買女性人権運動」(著者=チョン・ミレ氏、イ・ハヨン氏/翻訳・解題=金富子氏)から次の部分を引用して紹介します。

「東京外国語大学海外事情研究所,Quadrante,No.21,(2019)305」

http://repository.tufs.ac.jp/bitstr…/…/93335/1/ifa021025.pdf

「1-3.性売買防止法の制定、新しい朝鮮と限界/『性売買防止法』は、女性連合が立法請願した通りに通過したわけではなかった。女性連合をはじめとする女性団体は、性売買女性を非犯罪化して、購買者(買春者)と斡旋者の処罰を強化する、別名『ノルディック・モデル』を提案したが、国会〔の審議〕をへるなかで公平性を理由に性売買関連者すべてを処罰する禁止主義に変形した。(略)」

▼▼前田朗氏のブログに次の論文が掲載されています。

東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(一)「アウシュヴィツの嘘」と「慰

安婦の嘘」

https://maeda-akira.blogspot.com/2019/10/blog-post_8.html

東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(二)「アウシュヴィツの嘘」と「慰

安婦の嘘」

https://maeda-akira.blogspot.com/2019/10/blog-post_93.html

(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

▼▼以前、「2018年11月、根津美術館(東京都港区)特別展『新・桃山の茶陶』を見て、すっかり茶陶の面白さに興味を引きつけられました。」と書きました(掲載日2019年9月3日)。「茶陶」に興味を持ったのは昨年です。しかし、やきものに興味を持った時期と言えば、私自身が書いた古いノートを開いてみたところ、「1999年8月17日」に「疑問点と出発点」として「ケンブリッジの博物館やマラケッシュホテルでみたようなイスラミックのあざやかなデザインのお皿は、いったい、いつごろからつくられていたのか。中国のデザインがもととなっているのか。イスラム独自のものか。中国の技術がどのくらい影響したものなのか。イスラム独自の技術で可能なものであったのか?」と手書きでメモしてあります。1999年8月上旬にロンドン、ケンブリッジ、エジンバラ、ピトロッホリーなどを約10日間で旅行し、その際にロンドンで宿泊した「マラケッシュホテル」食堂に飾られた皿などから大変興味をひきつけられた様です。当時の勤務先の近くにあった図書館で①「ヨーロッパ陶磁の旅物語(6)トルコ・アラブ首長国連邦」、②「ペルシアの名陶/杉村棟」、③「マイセンへの道・東西陶磁交流史/三杉隆敏」などを読み、興味のある要点を書き出したメモが残っています。次に私個人が1999年9月初旬までに手書きしたメモから引用します(書籍名、著者名ともに手書きメモのママ)。今回、読み返すまで、自分でメモしたことも忘れていました。ほとんど言葉の意味する内容を自分で直接に見たこともない時期に、字面だけの知識にしては、まとまったものになっていることに驚きました。

▼①「ヨーロッパ陶磁の旅物語(6)トルコ・アラブ首長国連邦」

34ページ「トルコ民族、紀元前遊牧しつつロクロ回す/7~8世紀彩色陶器/10世紀イスラムに改宗/11世紀アナトリア地方セルジューク朝/トルコ陶芸=イスラム・アッバース朝文化うけつぎ、黄金期へ/同時期、中国では宋・元のすぐれた磁器、双方へ流通/ex(1)素地の刻文で装飾した技法―宋時代の白磁(はくじ)・青磁(せいじ)の影響。/ex(2)掻落し文(かきおとしもん)は宋の磁州窯に影響をあたえた/明の五彩はミナイ手(色絵陶器の1つ)の模倣といわれている。ミナとはペルシア語でエナメル。化粧がけした器にトルコブルーや緑で彩色し、一度焼成してから様々な文様をさらに描くという手のこんだものだった。」

▼②「ペルシアの名陶/杉村棟」

「後期ペルシア陶器15~18世紀/白釉藍彩陶器/コバルトで施文してから、透明釉をかける釉下藍彩陶器は、イランで創始された手法によると考えられる。/13世紀初めのカーシャーンではコバルトで細い帯を放射状にひき、さらに文字の文様の細部を黒でいれる手法が流行した。/コバルトで施文したうえに釉薬をかけて焼成すると釉下のコバルトが流れて文様がくずれる難点があるので細かい文様をコバルト釉で表現するのは、むずかしかった。」「イスラム陶器/イスラム教では厳しく偶像崇拝を禁じているため、絵画や彫刻の発達ははばまれた。芸術家の創意はもっぱら書法や工芸、デザインに注がれた。/イスラム世界には中国の陶磁の影響が3波にわたっておよんだ。9世紀、12世紀、15世紀/西アジアでは、中国で生まれた磁器の素材となるカオリンは得られず、そのうえ焼成火度が低いため硬質磁器を生むにはいたらなかった。/ペルシア三彩(9~10世紀、12世紀)と唐三彩(唐代616年~906年)/装飾・技法の間にはなんらかの影響関係あり。まったく独自に発展という説もある。」

▼③「マイセンへの道・東西陶磁交流史/三杉隆敏」

23ページ「陶器と磁器のちがい/陶器~有色胎土。吸水性あり。透光性なし。熱伝導おそい。たたくと鈍い音。/磁器~白色胎土。吸水性なし。透光性あり。熱伝導がよい。たたくとチンチンと涼やかな音。」

56ページ「酸化焔と還元焔/ex日本の弥生式土器~土器のほとんどは赤い色をしている。これは材料に使う粘土の中にふくまれる鉄分が酸化することによる発色。/日本の須恵器~同じ土器でも灰色か黒色。土の中で含まれた鉄の色が現れた結果で、鉄そのものの色が出たもの/この違いは、やきものを焼くときに充分な空気、つまり酸素を豊富に供給すると酸化焔となり、その焔で焼かれたものは、すべて酸化し、土中の鉄は赤色を帯びた酸化鉄となる。酸素の供給が不十分なときは一酸化炭素になる(やきものの場合、一酸化炭素は酸化鉄をもとにもどすはたらき)。そこで、原土の中にたとえ酸化した鉄が含まれていても、それをもとの鉄にもどしてしまう。」

62ページ「景徳鎮(けいとくちん)とは/中国のちょうど中部。江西省に番陽湖がある。その東岸に、景徳鎮がある。/やきものの生産がはじまったのは2000年前~漢の時代。宋時代に景徳帝のとき宮廷にやきものを納めるよう勅命があり、その後、今日まで景徳鎮窯といわれている。/宋時代以前はともかく、宋時代に『影青(インチン)』と呼ばれた白磁はここで焼かれた。/影青~基本的には白磁であるが、その胎土と釉薬になる磁土に少し鉄分があることから釉薬が厚くなったところが、ほのかに青みを帯びる。」

67ページ「磁器製作の機密・カオリン/中国の磁器が世界の貴重品とされた理由/初めてカオリンという磁土をみつけ、1300度という高熱で焼成した。1709年にマイセンで磁器が焼けるまで他の国では焼くことができなかったので、西欧諸国では中国の硬いやきものに憧れつづけた。/朝鮮半島~中国から製法をおしえられて、生産に手をつけたのは12世紀。高麗時代。/日本~有田の泉山で陶土をみつけ、磁器をやきはじめたのは1616年ころ。/それほどカオリンは大切。しかし、中国はどこでもカオリンをつかっていたというわけではない。カオリンに関して景徳鎮ならではということができる。/カオリン~主成分カオリナイト/花崗岩や石英斑岩が風化作用をうけて分解した白色の微細な結晶があつまった鉱物/景徳鎮の郊外の高嶺山(こうりょうさん)でこの磁土が見つかり、その名がなまったことによりカオリンとなった。」

72ページ「中国陶磁の種類/白磁~中国で最も古い白磁は随時代7世紀の墳墓から出土。しそれまでの中国のやきものは表面にほどこされた釉薬には黒とか褐色などの色がつき、たとえ胎土が白いものでも、その土を透かして見ることはできなかった。/ところが、このグループは明らかに透明な釉薬をかけたものであり、白く硬いやきものを意識して作られたと考えられる。/特に景徳鎮における磁土の発見により、宋時代はやや青みがかっているが、元時代、明時代、清時代とより白く、より美しい形の生産へとつながる。ただし、元時代になると染付の大量生産がはじまり、明時代以降は白磁の上にさらに色彩を加える様になり、本来の白のみ楽しむことは少なくなった。/中国では儒教が特に栄えた宋時代。そのストイックな思想を反映して白いものが喜ばれた。」

76ページ「青磁は翡翠(ひすい)の粉をくだいて焼いた。玉には徳があり、玉を身につけていると、あやかることができる。そこで人間の手で玉をつくろうとしたのが青磁である。玉も青磁の釉薬も顕微鏡でみると幾層にも小さな泡がある。その泡に外光と胎土の色が反射して、その美しいしっとりとした味わいがでてくる。/宋朝が杭州に遷都した1127年、人造玉と呼ぶにふさわしい青磁が焼けた。南宋時代から元時代、明時代までの約300年間。浙江省の龍泉窯の大量生産時代をむかえた。15世紀の初期をすぎると長年つづいた青磁の生産はくだり坂。景徳鎮の染付(そめつけ)や色絵にセンターがうつってしまったため。」

80ページ「染付~14世紀前半、元の時代、景徳鎮で大量生産がはじまった。それは、中国の国内使用のためではなく、中近東に輸出されるべく作り出されたものである。/白地の上に酸化コバルトを顔料として筆で文様を描くということはすでに9世紀メソポタミアやニシャプールでおこなわれていた。ただしそれらの地では中国のような磁土がないので、あくまで染付陶器であった。/そこでアラビア商人は良質の酸化コバルトの発見されていない中国にペルシアのコバルトを顔料として提供し、中国の磁土で焼けた染付磁器が焼けることがわかり、新しい商品を考えた。/14世紀『格古要論』では染付はさわがしいものであると記しており、明朝15世紀以降は中国でもおおいに楽しむが、当初、中国の教養ある人たちの間では決してよろこばれたものではなかったようである。/また当初、海外に運ぶのはアラビア隊商だったが、16世紀になると次々とヨーロッパの船団が中国および極東貿易に力を入れ、特にオランダは中国の染付をヨーロッパ全体に売り17世紀、18世紀、バロックやロココの流行とともに中国趣味やシノアズリーを流行させた。/特に景徳鎮のカラック・ウェア(日本でいう芙蓉手)と呼ばれるものがコレクションされた。」「色絵~広義では唐三彩などを含む。明時代になると赤・緑・黄・青・黒などの色がかなり自由に使いこなされた(中国でいう『五彩』)。日本では色絵とよんでいて、明時代のものは赤色が特に多く使用されたことから、日本では赤絵とよばれることもある。/どのようにはじまったのかはまだあきらかになっていない。中近東のミナイ手、ミナイ手による金彩をほどこしたものから、技法が宋時代に中国北部、磁州窯に影響したのではないか。/酸化コバルトの藍はべつとして、もともと赤、緑、黄色などは、800度以上の高温にあうと変色してしまう(超窯)。そこで、景徳鎮では1300度でボディをやき、その白磁の上に赤は緑、黄の色絵を筆によってほどこし、それを低い800度までの窯でもう一度焼くことによりカラフルな焼物をつくることに成功した。」

146ページ「芙蓉手染付~皿や鉢に等間隔の書き割りがあり、その一つ一つがちょうど芙蓉(蓮の花)の花弁のごとくなっている。またボディも芙蓉のように薄いことから、この名称がつけられたという。」

175ページ「オリエンタルデザインから独自のものへ/オランダ東インド会社は明朝から清朝への政変で景徳鎮の生産が止まり、1652年には1点の中国磁器も買い付けできなくなり、李三平により磁器生産が始まりかけた日本に中国の代替品として中国風の染付磁器の注文がくるようになる。/江戸時代の1651年が伊万里焼の輸出が始まった年である。当初は中国風のものであったが、色絵の柿右衛門タイプの伊万里焼がヨーロッパでよろこばれた。ちょうど白土の上に藍で絵をほどこすことの流行がおわりつつあったので、よいタイミングであった。/柿右衛門デザインは日本風の構図であるとともに色絵なので、赤、青、黄の色調が多くの部分を占め、さらに金彩が加えられている。また竹や柴垣などは日本風である。」

188ページ「南北ヨーロッパの風土・文化の差/ヨーロッパのアルプスを中心とした南北では基本的にことなった文化がある。アルプスの北側は冬は寒く、春がきても決して晴天続きとはならない。暗く空全体が重くるしく大地をおおっている。その中では人々は文学的な思索家となり、哲学を考え、音楽が発達。/またその思索のなかから物理や化学が発達。/アルプスの南側、地中海世界/太陽が燦々と輝き、あらゆるものがカラフル。青い空、青い海、太陽に照らし出された日おもてと日かげの陰影の強さは絵画よりも彫刻を育てた。/中国と同じような磁器をつくろうと努力したのは、マイセン、セーブル、イギリスどこもアルプスの北側。イタリアではメディチポルセイン、ジノリが出たが、それほど執着していない。/地中海世界では、すでに8世紀イベリア半島にペルシア陶器の技法が持ち込まれた。カラフルであり、またアラベスク風の同じ文様のくりかえしのあるものなどは、彼らにとっては、長年肌にしみこんだものであった。あえて中国の染付にとびつくこともなければ、遠い中国へのあこがれが強くあったかもわからない。」

244ページ「カラック~14世紀~16世紀にかけてヨーロッパ大型帆船が大航海時代の外洋線として活躍。海上での交戦もあり、大砲をつんでいた。その武装交易船の総称をカラックという。/その船が中国の芙蓉手染付を次々とヨーロッパに運んできたので、カラックウェアという染付磁器の俗称ができた。」

▼1999年当時すでに油絵などの西洋画を国立西洋美術館(上野)などに見に行っていましたが、やきものにも興味がひろがり、まず、よく出掛けるようになった先は、出光美術館(有楽町)です。日本、中国などの陶磁器の企画展を度々開催しています。常設として陶片の展示室があります。関連で見に行ったのが、中近東文化センター付属博物館(三鷹)です。また陶磁器を専門に展示している戸栗美術館(渋谷)にも行くようになりました。

▼しかし、しばらくの間、業務多忙などで、まとまって考える機会も、時間もないまま経過し、昨年以降、時間ができたので、あらためて見て歩いています。2019年初旬には展覧会「染付~世界に花咲く青のうつわ」(出光美術館/2019年1月~3月)を見に出掛け、図録も購入しました。「Ⅰ青の揺籃~オリエント青色世界/Ⅱ中国青花磁器~景徳鎮官窯と民窯」~「Ⅳ伊万里と京焼~日本の愛した暮らしの青」などマーブル装飾瓶(地中海地域/1世紀)から青花花卉文透彫皿(ドイツ・マイセン窯/19世紀)、白地藍彩花瓶文瓢型瓶(オランダ・デルフト窯/18世紀)まで解説を交えて展示されていました。(「『青花(せいか)』は中国における染付(そめつけ)の呼び名」〔図録40ページ〕)同館ショップでは、以前に開催された図録のうち「魅惑のペルシア陶器/イスラーム陶器誕生までの流れ」(発行日2007年3月9日/発行者=中近東文化センター附属博物館)、「煌めきのペルシア陶器/11~14世紀の技術革新と復興」(同2008年3月7日/同)、「海を渡ったペルシア陶器/17世紀中国・日本・イランの陶磁器貿易」(同2010年3月12日/同)、「宋磁~神秘のやきもの」(同2018年4月21日/発行者=出光美術館)を購入し、いずれも解説などを読みました。いずれも直接展示を見に行く機会が得られなかったことが残念です。図録「海を渡ったペルシア陶器」18ページ「中国の混乱によるイランと日本の陶磁器輸出」のうち23ページに私にとっては非常に興味深い記述がありました。23ページ「イランにおける陶磁器の立地は、中国や日本の生産地とは異なり、良質の燃料なとなる木材の調達が困難であったことを示しています。したがって磁器を焼成するための磁土が入手できたとしても1300度以上の高温を長時間維持することは困難であったと推測できます。これがイランや中近東では磁器生産へと移行できず、陶器生産を継続した理由であると思われます。」また図録「宋磁~神秘のやきもの」には次のような記述がりました。58ページ「コラム①宋磁の広がり~新たなやきものの創出への導き/宋時代に入ると、中国国外への陶磁器の輸出が量・種類ともに増加します。宋磁の中国国外への流通は、朝鮮半島や日本の陶磁器生産にも大きな影響を及ぼしました。(略)/朝鮮半島の高麗(918~1392)では、12世紀から13世紀前半に高麗青磁の盛行期を迎えます。無文や刻花、印花などの文様にくわえて、高麗独自の象嵌(ぞうがん)青磁や辰砂(しんしゃ)などの装飾技術が発達します。(略)」

▼参考までに中近東文化センター附属博物館、出光美術館、戸栗美術館ともに「高さ」または「奥行き」、「口径」などをセンチメートルで表示していて、大変わかりやすいです。三井記念美術館、サントリー美術館など他の美術館では長さ表示がないところもあり、「重さ」などの情報を含めて是非表示してほしいと希望します。磁器と陶器、高麗茶碗や瀬戸黒、志野のうつわなど自分が通常使用しているご飯茶碗とくらべて重いか軽いかなどガラス越しではわからないことも多くあり、とても残念です。ぜひ、研究を進めて表示を改善してほしいと考えています。

小さい「平和の少女像」を広げるキャンペーン

今すぐ日本の中に「平和の少女像」建てることはできなくても、私たちがそれぞれ「小さい平和の少女像」を持つことは今でも可能です。その運動にご参加ください。 小さい「平和の少女像」を購入していただき、その少女像の写真を撮影、皆さんの少女像に込めたメッセージを送ってください。 詳しい情報はこのページのメッセージや以下のメールでお問い合わせください。 31demo1919@gmail.com

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