小さい「平和の少女像」と-176

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#小さい平和の少女像injapan

#表現の不自由展その後再開

(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

写真連作「私は、多くの人々がいつでも彼女に会うことができるもっと多くの場所を必要とします」

The series of photographs “I need more places where many people can meet her anytime.”

写真名 秀吉がつくったまち長浜(第21番/写真連作)

The town which Hideyoshi made,Nagahama (The Twenty-first photograph of the series)

写真名 琵琶湖(第22番/写真連作)

Lake Biwa(The Twenty-second photograph of the series)

写真名 慶雲閣(第23番/写真連作)

Keiun-kaku(The Twenty-third photograph of the series)

写真名 大手橋からの眺め(第24番/写真連作)

View from Ootebashi-Bridge(The Twenty-fourth photograph of the series)

写真名 長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎) (第25番/写真連作)

Nagahama railroad square (Former Nagahama station building)(The Twenty-fifth photograph of the series)

写真名 長浜旧開知学校(第26番/写真連作)

Nagahama old Kaichi school(The Twenty-sixth photograph of the series)

写真名 ながはま御坊表参道(第27番/写真連作)

Nagahama Gobō Omotesandō(The Twenty-seventh photograph of the series)

写真名 曳山博物館(第28番/写真連作)

Hikiyama museum(The Twenty-eighth photograph of the series)

写真名 ミュージアム黒壁&ショップ(第29番/写真連作)

Museum Kurokabe(black wall) & shop(The Twenty-nineth photograph of the series)

黒写真名 壁ガラス館(第30番/写真連作)

Kurokabe(black wall) glass building(The Thirty photograph of the series)

写真名 長浜城(第31番/写真連作)

Nagahama Castle(The Thirty-first photograph of the series)

写真名 在来線プラットホームから眺め_米原駅(第32番/写真連作)

View from Platform of the conventional railroad line_Maibara Station(The Thirty-second photograph of the series)

写真名 富士山(新幹線車窓からの眺め) (第33番/写真連作)

Mt.Fuji (View from the Shinkansen car window)(The Thirty-third photograph of the series)

写真名 新幹線プラットホーム_東京駅(第34番/写真連作)

Platform of Shinkansen_Tokyo Station(The Thirty-fourth photograph of the series)

◆◆バックナンバー/Back numbers

◆写真連作「私は、多くの人々がいつでも彼女に会うことができるもっと多くの場所を必要とします」

掲載日2019年8月31日/第1番~第5番

掲載日2019年9月3日/第6番~第10番

掲載日2019年9月30日/第11番~第20番

◆写真連作「私は差別を許さないマスメディアを必要とします。」

掲載日2019年9月10日/第1番~第10番

◆写真連作「彼女と、私は公的または私的な美術館と展示を訪問しました。」

掲載日2019年9月30日/第1番~第9番

●連作に寄せて※(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

「野生の威厳/谷川俊太郎」(東京・日本橋三越ライオン像プレート)より引用します。

(略)「歴史に翻弄される私たちの前で/時の流れに洗われながらも/苛酷な天災人災にも恬然として/静かに王の威厳を保ち続け」(中略)「人智を超えたこの野性の存在は/無言でただそこにとどまることで/どんな言論にもどんな行動にもまして/勇気と自由の大切さを人に告げる」

※三井記念美術館は三越日本橋店(「三井越後屋」(みついえちごや)から「三越」の名称が誕生)とは通りを挟んだ建物(現在の三井住友信託銀行)にあります。

(ペンネーム/758_against_racism_with_tokyo)

▼▼先日、業務で滋賀県長浜市に出張しました。「東海・北陸の関係者が集まる」会議でした。今の情勢を考えれば、名古屋で開催してほしいところですが、東海・北陸の両地域から出席しやすい場所ということで、致し方なく、長浜市へ行きました。あらかじめ観光の情報を調べる余裕もなく、はじめて訪れたJR長浜駅西口のエスカレーター昇降口には「秀吉がつくったまち長浜」(監修=西川淳子氏/制作=黒壁コールドグラス工房)が展示されています。先日、写真を投稿した際に、書籍「韓国のやきもの~先史から近代、土器から青磁・白磁まで」を紹介した文書で「文禄・慶長の役」を触れたばかりです。因縁を感じずには居られません。この投稿は業務外で行っています。写真撮影は早めに到着した開始前の時間や早朝など業務外の時間を使って撮影しました。撮影した場所は、いずれも駅から徒歩20分程度の範囲内にあります。

▼▼私が高校生のときに学んだ日本史教科書〔新詳説日本史(1990年3月5日発行/株式会社山川出版社)〕に次のような記述があります。

▼159ページ「秀吉の対外政策/(略)秀吉は国内統一とともに明の制服をくわだてた。まず1587(天正15年)対馬の宗氏に命じて朝鮮王国の入貢と明への先導とをもとめた。しかし明に対して従属関係をとっていた朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は出兵の準備をはじめ、肥前の名護屋に本陣をきずき、1592(文禄元)年、加藤清正ら西日本の大名を主力とする15万余の大軍を釜山に上陸させた(文禄の役)。日本軍は朝鮮側の対応のおくれもあって、まもなく漢城(現、ソウル)をおとしいれ、加藤軍は豆満江まで進出した。しかし李舜臣のひきいる朝鮮水軍の活躍や、朝鮮義勇軍の抵抗、明軍の来援があり、日本側は水軍の劣勢による補給不足、諸将の不和などのため戦況は思うように進展しなかった。そのため、秀吉は明との講和をはかったが、秀吉の講和条件は無視されて交渉は決裂した。秀吉は1597(慶長2)年、ふたたび14万余の兵を朝鮮におくった(慶長の役)が、日本軍は苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死したため全軍撤退した。前後7年にわたる朝鮮出兵は、明と朝鮮の反感をかい、国内的にはぼう大な戦費と兵力をついやして、豊臣政権を衰退させる原因となった。しかし、この間、軍役動員をつうじて、諸大名は家臣を在地から引き離し、領内支配を強化したことも見逃せない。」

▼162ページ「桃山美術/この時代を象徴するのが城郭建築である、この時代の城郭は軍事的・政治的な理由から、それまでの山城とは違って交通の便利な平地につくられ、重層の天守閣をもつ本丸をはじめ、土塁や壕でかこまれたいくつかの郭をもつようになった。安土城や大阪城・伏見城などは城主の威勢を示す雄大・華麗なものであったと伝えられている。城の内部には書院造をとりいれた居館が設けられ、内部の襖・壁・屏風には、濃絵とよばれる金碧の彩色をもつ障壁画が描かれ、欄間を透かし彫の彫刻がほどこされて豪華さを加えていた。/障壁画の中心となったのは狩野派で、狩野永徳は室町時代にはさかんになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図をもつ新しい装飾画を大成し、その門人狩野山楽とともに多くの障壁画を描いた。(略)また、朝鮮出兵の間に朝鮮から活字印刷術が伝えられて、いくつかの書籍が出版された。」

▼▼2019年8月3日に映画「太陽がほしい」(監督・班忠義氏)を見ました。監督は「ドキュメンタリー映画『太陽がほしい』の誕生について書籍「慰安婦と呼ばれた中国人女性たちの人生の記録」で次のように記述しています。

▼6ページ「(略)彼女たちへの理解と認識を深め、また彼女たちが歩んできた苦難の歴史をみなさんと共有することを決意し、その製作支援を日本の市民に広く呼びかけました。/(略)日本では『慰安婦』問題のことが話題になると、韓国の被害女性のことが中心となり、『強制連行』があったかどうかという1点に争点が絞られて議論が展開していきます。強制連行の証拠が見つからなかったら『慰安婦』としての性被害は女性自らの責任だ、と言わんばかりです。(略)/これまで日本のナショナリズムや保守勢力は、中国や東南アジアでも、強制連行の事実がたくさんあるのに、その事実は報道されず、議論されてきませんでした。(略)/しかし、日本で議論される朝鮮半島の被害女性のケースにおいても、人道上、司法上、倫理上のさまざまな問題がいまだ残されたままで、連れて行かれた国によって被害状況も様々です。(略)/一方で、戦時中の中国人性暴力被害女性の被害実態もさまざまです。(略)いわゆる日本軍がつくった慰安所制度の枠内における性被害だけでなく、日本兵が設置した『強かん所』での被害や、将校や下士官で連行され、監禁状態に置かれた『現地妻』状態の被害、またゲリラ掃討作戦で逃げ遅れた女性に対する集団レイプ被害などです。/これらの女性は、いわゆる日本軍が設置した慰安所のようなところに入ったことはなく、慰安所という名前を当時、見たことも聞いたこともありませんでした。(略)『慰安婦』問題に代表される戦時性暴力における被害については、戦後50年がたっても中国では、問題にならず、なぜ1990年代になって初めて世に出てきたのでしょうか?それは、日本の侵略戦争が終わった後も、中国では国内戦争や権力闘争、経済競争などが嵐のように続き、過去の戦争における女性への性暴力被害問題は徐々に埋もれていき、真相が隠されてしまったからです。(略)/日本の歴史教育は、若い人たちに侵略戦争の実態、戦争犯罪の数々を知らせずに、被害者意識だけを植え付けています。そのせいで若い人たちは世の中にある他の事実を時々耳にしては、戸惑い、何が真実かわからなくなり、みずみずしい感性と知性で歴史認識を持てないであいるのです。まさに、国家的なナショナリズムによって歴史的事実が封殺され、若い人たちが本来持てたはずの歴史認識が妨げられていると言えるでしょう。/『太陽がほしい』という映画は、70年前の戦争で起きた事実を明らかにすることで、正しい歴史認識構築の手助けになると思っています。これからの世界では、こういった日宇道はなくして、人間性を失うような残虐行為を行ってはいけないというメッセージが含まれています。(略)」

▼参考までに2019年6月8日、天安門事件30周年にあたり、「上映会と討論」(主催=週間読書人)が専修大学神田校舎で開催されました。映画「亡命(翰光監督90分特別バージョン/日本語字幕)」上映と監督のトークがあり、私も参加しました。翰光(ハン・グァン)は班忠義(ハン・チュウギ)の別名ということです。当日配布されたチラシによると映画「亡命」は企画・製作=山上徹二郎氏、編集・制作=ジャン・ユンカーマン氏の長編ドキュメンタリー118分、2010年(ジクロ製作)ということです。

▼▼2019年6月1日に開催された「障がい児者への性暴力の実態が認識される社会へ/映画『くちづけ』上映会&トークセッション」に参加しました。その際に配布された「障がい児者への性暴力に関するアドボカシー事業報告書/特定非営利活動法人しあわせなみだ」には、「発達障がい児者への性暴力の現状」(東洋大学社会学部社会福祉学科助教・岩田千亜紀氏)、調査を実施した「NECCO創設者金子磨矢子氏へのインタビュー」、「発達障害当事者のグループインタビュー」の他に資料として「諸外国の性犯罪における障がい児者の取り扱い」が掲載されています。「障がい児者への性暴力に対する要望」として第1番目に「刑法性犯罪処罰規定に『被害者が障がい児者であることに乗じた性犯罪』を創設してください」とし、「被害者が障がい児者である場合、被害者と加害者の間には『それが性犯罪であるという知識・情報・判断』に圧倒的な差が生まれます。また、『それが性犯罪である』と理解できても、『性犯罪から逃れるための知識・手段・時間』は、圧倒的に不利な状況です。」などと記述しています。是非おおくの方々に知っていただきたいと願っています。

▼▼書籍「朝鮮学校を歩く/1100キロ/156万歩の旅」(写真・文=長谷川和男氏/編=同刊行委員会/発行=花伝社/発売=共栄書房/編集・本文デザイン・装丁=岡本有佳氏/2019年7月28日初版第1刷発行)を2019年9月頃に読みました。「一歩踏み出すまで」として次のような記述があります。

▼4ページ「(略)/『高校無償化』裁判で、一般の私たちにできることが限られている。裁判傍聴や集会の設定。情宣など力を注いだ。東京裁判が結審となり、判決を待つことになった時、私に何ができるか真剣に考えていた。文科省前の『金曜行動』でアピールする朝鮮大学生が『私は福岡朝鮮学校中級部を出て、現在朝鮮大学校の3年生です』『私は大阪朝鮮学校で学び、現在朝鮮大学校の1年生です』と誇らしげに母校のことを語る言葉を聞いて、『全国にある朝鮮学校をすべて訪問しt、子どもたちや先生方、オモニ(お母さん)やアボジ(お父さん)を励ましたい』と強く思うようになった。/体力に自信があった。私にできることは、自分の体力を生かすことだ。(略)一歩踏み出して、本当によかったと思う。現在休校している学校を含めて全国67の朝鮮学校をすべて訪問することができた。子どもたちの真剣に学ぶ姿、部活動に打ち込む熱い情熱に触れて、ますます朝鮮学校が好きになった。(略)朝鮮学校のある場所は、なぜその地に学校がつくられたのか、という歴史がある。70年以上の歴史に刻まれた在日朝鮮人のみなさんの『朝鮮学校を守りたい!』という熱い想いに触れて、もっと多くの日本人朝鮮学校の真実を伝えたいと思う。」

小さい「平和の少女像」を広げるキャンペーン

今すぐ日本の中に「平和の少女像」建てることはできなくても、私たちがそれぞれ「小さい平和の少女像」を持つことは今でも可能です。その運動にご参加ください。 小さい「平和の少女像」を購入していただき、その少女像の写真を撮影、皆さんの少女像に込めたメッセージを送ってください。 詳しい情報はこのページのメッセージや以下のメールでお問い合わせください。 31demo1919@gmail.com

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